12/05/12_itoshii
紅郎はまだ紅郎のままで、それはとうぜんで、私は夏が終わったころ紅郎に宛てて書いた手紙のことを思い出していた。結局出さなかった手紙のことを考えていた。
紅郎さま
暑さやいろいろで、
しばらく眠りが浅かったけれど、
そういう時も過ぎて、
ようやくぐっすり眠れるようになりました。
そしたら残暑がきて、また寝苦しくなっちゃいましたけど。
いろいろ考えたけれど、
結局は考えても何も出てこないのですね。
ただね、
ずいぶん楽しかったなあということだけ、
今は思ってます。
もう紅郎といっしょにいられないんだってわかった日の明けがた、
新聞配達のひとの足音がとんとん階段をのぼってくるのを聞きながら、
私は、
よきものになりたいなあって思っていました。
よきものって、ほんとはどんなものかわからないけれど、
そういうものになりたいなってただ思っていました。
いろいろありがと。
からだに気をつけて。
元気でね。
マリエ
姉の言うとおりかもしれない、誰かを好きになるということは、誰かを好きになると決めるだけのことかもしれない、紅郎が慕わしかった、紅郎が好きだった、今でも紅郎が好きなのだった、紅郎が好きで嬉しかった、紅郎が好きということが不思議だった、紅郎はしかしもう私とは無関係のものなのだった、いつかはよきものになれるかもしれないという気分に一瞬なった、一瞬なったが、たぶん嘘で、それもまた満ち足りた気分なのだった。
「さよなら」
私は言って、紅郎に向かって頭を下げた。
「さよなら、またいつか」
紅郎も言って、頭を下げた。
川上弘美/『いとしい』
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